文鳥 15/28 (夏目漱石)
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 昔美しい女を知っていた。この女が机に凭れて何か考えているところを、後ろから、そっと行って、紫の帯上げの房になった先を、長く垂らして、頸筋の細いあたりを、上から撫で回したら、女はものう気に後ろを向いた。その時女の眉は心持ち八の字に寄っていた。それで眼尻と口元には笑いが萌していた。同時に恰好の好い頸を肩まですくめていた。文鳥が自分を見た時、自分はふとこの女の事を思い出した。この女は今嫁に行った。自分が紫の帯上でいたずらをしたのは縁談のきまった二三日後である。
 餌壺にはまだ粟が八分通り這入っている。しかし殻もだいぶ混じっていた。水入れには粟の殻が一面に浮いて、いたく濁っていた。かえてやらなければならない。また大きな手を籠の中へ入れた。非常に要心して入れたにもかかわらず、文鳥は白い翼を乱して騒いだ。小い羽根が一本抜けても、自分は文鳥にすまないと思った。殻は奇麗に吹いた。吹かれた殻は木枯らしがどこかへ持って行った。水もかえてやった。水道の水だから大変冷たい。
--おわり--