琴のそら音 24/57 (夏目漱石)
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「いずれその内婆さんに近づきになりに行くよ」と言う津田君に「御馳走をするから是非来たまえ」と言いながら白山御殿町の下宿を出る。
 我からと惜しげもなく咲いた彼岸桜に、いよいよ春が来たなと浮かれ出したのもわずか二三日の間である。今では桜自身さえ早まったと後悔しているだろう。生温く帽を吹く風に、額際からにじみ出す膏と、粘り着く砂埃とをいっしょに拭い去った一昨日の事を思うと、まるで去年のような心持ちがする。それほどきのうから寒くなった。今夜は一層である。冴え返るなどと言う時節でもないに馬鹿馬鹿しいと外套の襟を立てて盲唖学校の前から植物園の横をだらだらと下りた時、どこで撞く鐘だか夜の中に波を描いて、静かな空をうねりながら来る。十一時だなと思う。――時の鐘は誰が発明したものか知らん。今までは気がつかなかったが注意して聴いてみると妙な響きである。
--おわり--