琴のそら音 42/57 (夏目漱石)
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 横を向いてふと目に入ったのは、襖の陰に婆さんが丁寧に畳んで置いた秩父銘仙の普段着である。この前四谷に行って露子の枕元で例の通り他愛もない話をしておった時、病人が袖口の綻びから綿が出かかっているのを気にして、よせと言うのを無理に蒲団の上へ起き直って縫ってくれた事をすぐ連想する。あの時は顔色が少し悪いばかりで笑い声さえ常とは変わらなかったのに――当人ももうだいぶ好くなったから明日あたりから床を上げましょうとさえ言ったのに――今、眼の前に露子の姿を浮かべてみると――浮かべてみるのではない、自然に浮かんで来るのだが――頭へ氷嚢を載せて、長い髪を半分濡らして、うんうん呻きながら、枕の上へのり出してくる。――いよいよ肺炎かしらと思う。しかし肺炎にでもなったら何とか知らせが来るはずだ。使いも手紙も来ない所をもってみるとやっぱり病気は全快したに相違ない、大丈夫だ、と断定して眠ろうとする。
--おわり--