地獄変 63/76 (芥川龍之介)
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 十七

 時刻はかれこれ真夜中にも近かったでございましょう。林泉をつつんだ闇がひっそりと声をのんで、一同のする息をうかがっていると思う中には、ただかすかな夜風の渡る音がして、松明の煙がその度に煤臭い匂いを送って参ります。大殿様はしばらく黙って、この不思議な景色をじっと眺めていらっしゃいましたが、やがて膝をお進めになりますと、
「良秀、」と、鋭くお呼びかけになりました。
 良秀は何やらご返事を致したようでございますが、私の耳にはただ、うなるような声しか聞こえて参りません。
「良秀。今宵はその方の望み通り、車に火をかけて見せて遣わそう。」
 大殿様はこう仰って、お側の者たちの方を流し目にご覧になりました。その時何か大殿様とお側の誰彼との間には、意味ありげな微笑が交わされたようにも見うけましたが、これはあるいは私の気のせいかも分かりません。
--おわり--