途上 29/39 (谷崎潤一郎)
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「たとえばですね、ここに一人の男があってその妻を殺そう、――死に至らしめようと考えている。しかるにその妻は生まれつき心臓が弱い。――この心臓が弱いという事実の中には、既に偶然的危険の種子が含まれています。で、その危険を増大させるために、ますます心臓を悪くするような条件を彼女に与える。たとえばその男は妻に飲酒の習慣を付けさせようと思って、酒を飲むことをすすめました。最初は葡萄酒を寝しなに一杯ずつ飲むことをすすめる、その一杯をだんだんに増やして食後には必ず飲むようにさせる、こうして次第にアルコールの味を覚えさせました。しかし彼女はもともと酒をたしなむ傾向のない女だったので、夫が望むほどの酒飲みにはなれませんでした。そこで夫は、第二の手段として煙草をすすめました。『女だってそのくらいな楽しみがなけりゃ仕様がない』そう言って、舶来のいい匂いのする煙草を買って来ては彼女に吸わせました。
--おわり--