大谷刑部 36/45 (吉川英治)
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 誤算

「今夜は、帰らせてもらおう」
「もどるか」
「む……」
 刑部は、とうとう、応とは言わなかった。厭とも言わないのである、黙って、佐和山から駕籠に乗って、夜中に垂井へもどった。
 駕籠のうちに、揺られながらも、
(思い止まらせたい! ……何としても! ……)
 それしか、考えられないのであるが、もう引き戻せる三成でない事は、彼も観念していた。
(引き戻せないとしたら?)
 今は、それを思うのだ、それを思い悩むのだ。
 翌日――
 垂井を立つはずの、大谷勢は、依然として、宿長の邸にとどまっていた。
(ご病気が急に変わって――)
 という噂が宿にひろがった。
 刑部の室には、実際、憂暗の気が簾のうちに籠っていた。白い夜具が、きのうの昼中、きょうは宵からのべてあった。
 その上に、仰臥しながら、刑部は、見えない眼を天井に向けたまま考えていた。
 もう、迷っていない!
 あの一碗の茶のかおりで、彼の胸は定まっていた。必ずしも人間、英雄でなければならない事はない。成算に立ち、大局に動くことばかりが、武士でもない。
--おわり--