ケーベル先生 3/9 (夏目漱石)
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 先生の容貌が永久にみずみずしているように見えるのに引きかえて、先生の書斎はぼけ切った色で包まれていた。洋書というものは唐本や和書よりも装飾的な背皮に学問と芸術の派手やかさを偲ばせるのが常であるのに、この部屋は余の眼を射る何物をも蔵していなかった。ただ大きな机があった。色の褪めた椅子が四脚あった。マッチとエジプト煙草と灰皿があった。余はエジプト煙草を吹かしながら先生と話をした。けれども部屋を出て、下の食堂へ案内されるまで、余はついに先生の書斎にどんな書物がどんなに並んでいたかを知らずに過ぎた。
 華やかな金文字や赤や青の背表紙が余の眼を刺激しなかったばかりではない。純潔な白色でさえついに余の眼には触れずに済んだ。先生の食卓には常の欧州人が必要品とまで認めている白布が懸かっていなかった。その代わりにくすんだ更紗形を置いた布がいっぱいに被さっていた。
--おわり--