偸盗 54/122 (芥川龍之介)
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太郎は、はっと思った。殺すなら、今だという気が、心頭をかすめて、一閃する。彼は思わず、ひざに力を入れながら、太刀の柄を握りしめて、老人のうなじのあたりをじっと見た。わずかに残った胡麻塩の毛が、後頭部を半ばおおった下に、二筋の腱が、赤い鳥肌の皮膚のしわを、そこだけ目だたないように、のばしている。――太郎は、そのうなじを見た時に、不思議な憐憫を感じだした。
「人殺し。親殺し。うそつき。親殺し。親殺し。」
 猪熊の爺は、つづけさまに絶叫しながら、ようやく、太郎のひざの下からはね起きた。はね起きると、すばやく倒れた遣り戸を小盾にとって、きょろきょろ、目を左右にくばりながら、すきさえあれば、逃げようとする。――その一面に赤く地ばれのした、目も鼻もゆがんでいる、狡猾らしい顔を見ると、太郎は、今さらのように、殺さなかったのを後悔した。が、彼はおもむろに太刀の柄から手を離すと、彼自身をあわれむように苦笑をくちびるに浮かべながら、手近の古畳の上へしぶしぶ腰をおろした。
--おわり--