偸盗 111/122 (芥川龍之介)
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 太郎も死んだ。おばばも、もう生きてはいない。自分も、すぐに死ぬであろう。死ぬ。死ぬとは、なんだ。なんにしても、自分は死にたくない。が、死ぬ。虫のように、なんの造作もなく死んでしまう。――こんな取りとめのない考えが、やみの中に鳴いている藪蚊のように、四方八方から、意地悪く心を刺して来る。猪熊の爺は、形のない、気味の悪い「死」が、しんぼうづよく、丹塗りの柱の向こうに、じっと自分の息をうかがっているのを感じた。残酷に、しかもまた落ち着いて、自分の苦痛をながめているのを感じた。そうして、それが少しずつ居ざりながら、消えてゆく月の光のように、次第にまくらもとへすりよって来るのを感じた。なんにしても、自分は死にたくない。――

夜はたれとか寝む
常陸の介と寝む
寝たる肌もよし
男山の峰のもみじ葉
さぞ名はたつや
--おわり--