明治初頭の日本、上陸をめぐり多数のフランス水兵が死亡した。激怒した公使ロッシュは強硬な処断を要求したが……。実際の事件を描く森鴎外の本格歴史小説
- IA04260 (2024-09-17)
一同は隊長・小頭に報告した。隊長、小頭は彼等が士分に取り立てられ切腹を許されことを喜んだが、この死がフランス公使に要求されたものであることを知らなかったことを悲しんだ - IA04261 (2024-09-17)
晴天の23日、二十人は酒肴を賜り、新調の衣袴や絹服をまとった。一同は護送を受け持った熊本藩、広島藩が用意した駕籠二十台に乗り込んだ。二十台の駕籠には一台六人の兵がつく程だった - IA04263 (2024-09-19)
行列は切腹の場所と定められた妙国寺に入った。門内の天幕の内には、むしろが敷き詰めてある。二十人は駕籠を出て、本堂に居並び、皆平常のように談笑して時刻を待った - IA04265 (2024-09-20)
「妖ふんを除却し国恩に答う(後略)……」詩は攘夷の内容であった。寺は見物人でいっぱいで、逆に寺を見物することになり、八番隊の垣内が鐘撞堂に登って鐘を撞こうとした - IA04266 (2024-09-21)
僧侶がとめようとしても垣内は応じなかったが、駆け付けた仲間たちが説得するとようやく垣内は諦めた。そして仲間たちは「必要のない物だ」と言って僧侶に金を渡した - IA04267 (2024-09-21)
彼らは鐘撞堂を降りた。そして、幔幕に囲まれた切腹の場所を見ようと中に入ると、荒むしろの上に畳を裏敷きして毛氈が積みあげてあり、取り上げられた大小も置いてあった - IA04269 (2024-09-23)
両藩の士卒は彼らに詩歌や身の回りの品を所望し、中には襟や袖を切り取った者もいた。切腹はいよいよ午の刻(12時前後)と決まり、幕の内には介錯人が集まった - IA04270 (2024-09-24)
臨検の席には外国事務総裁山階宮ほか各藩の重役が並び、フランス公使が銃を持った兵卒二十余人を従えて座っている。用意が整ったことが二十人に告げられた - IA04271 (2024-09-24)
雨のため少々遅れて、役人が箕浦の名を呼んだ。箕浦は座に着いて短刀を手にとると「おれはフランス人等のためには死なぬ。皇国のために死ぬるのだ。よく見ておけ」と叫んだ - IA04272 (2024-09-25)
箕浦は短刀で腹を切り、傷から腸の大網を引き出しフランス人を睨み付けた。介錯の馬場はすぐに首を墜とせず、箕浦が「まだ死なんぞ」と叫び、三度目でようよう首が墜ちた - IA04274 (2024-09-26)
その後も、杉本、勝賀瀬、山本、森本、北城、稲田、柳瀬の順に切腹した。12人目の橋詰になった時、フランス公使は何か一言言うと臨検の席を離れ、兵卒たちと寺から帰ってしまった - IA04275 (2024-09-26)
続く橋詰の切腹を役人がとどめた。橋詰が残った八人と共に理由を尋ねると、小南は、フランス人の退席により中止したが、各藩の家老が軍艦に向かったので暫く待て、と答えた - IA04276 (2024-09-27)
深夜になって七藩の家老が戻り、九人と面会した。フランス公使は、土佐の人々の潔さには感服したが、惨憺たる状況を目撃するに忍びず、残る人々の助命を申し立てた、という - IA04277 (2024-09-27)
中一日置いて、九人は大阪表に引き上げることになった。駕籠に乗る時、橋詰が舌をかみ切った。傷は深くはなかったが、変事が起こらぬよう駕籠は駆け足で移動した - IA04279 (2024-09-28)
三月二日、死刑を免じて国元へ指し返すという達しがあり、彼らは船で護送された。三月十七日、九人は一旦遺書遺髪を送ってやった父母妻子に久し振りの面会をした