賑やかな人間関係を断ち、寺に住居を移した男。女装を楽しむうち昔の女に偶然出会う…。人に言えない楽しみを、谷崎潤一郎が濃密に描く「秘密」の物語
- IA02127 (2021-09-17 評価=3.00)
その頃、私は賑やかな交際関係から遠ざかりたいと思い、浅草の入り組んだ町の真言宗の寺の一間を借り受けた。寺は土塀が長く続く、重々しい感じを与える構えだった - IA02128 (2021-09-17 評価=4.00)
私は人形町で生まれ、東京に永住しているが、足を踏み入れたことのない通りも沢山ある。十一二歳の頃、父と一緒にそばを食べに行った時、父は私を神社の裏に連れて行った - IA02129 (2021-09-18 評価=4.00)
神社の裏に出ると、水量の多い川が両岸の家々の軒を押し分けるように流れていて、多数の船が往復していた。私は驚いて、神社の裏がまるで夢の中の世界のごとく思われた - IA02130 (2021-09-18 評価=4.00)
私は、子供の時分経験した神社の裏の別世界のような場所こそ、今回身を隠すのに最適の場所と考えて探し求めた。すると今まで通ったことのない区域を、至るところに発見した - IA02131 (2021-09-19 評価=4.00)
借り受ける寺は、歓楽街の近くだが廃れたような区域にあり「派手で贅沢で平凡な東京」からこっそり身を隠せ愉快だった。隠遁の理由は神経が擦り切れ、鈍くなってきたからだ - IA02132 (2021-09-19 評価=4.00)
一流の芸術や料理を玩味するのが不可能になって、毎日の怠惰な生活を変えてみたかった。神経をふるわせる不思議な奇怪な事はないものか、私の魂は多くの夢想をかりたてた - IA02133 (2021-09-21 評価=4.00)
私は秘密の面白さを子供の頃から味わっていた。私はもう一度幼年時代のかくれんぼのような気持ちを経験したいと思い、人の気づきにくい下町に身を隠したのであった - IA02134 (2021-09-21 評価=3.00)
私は哲学書や芸術書を片付け、魔術、催眠術、探偵小説、化学等の書物を耽読した。中にドイルの探偵小説、アラビアンナイトなどのおとぎ話、仏蘭西の性科学書も交じっていた - IA02135 (2021-09-23 評価=3.00)
私は地獄極楽などの古い仏画を部屋の四壁にかけ、お香を焚いた。天気のよい日には、絢爛(けんらん)な色彩の古画の仏や動物が泳ぎ出す。私は毎日幻覚を胸に描いた - IA02136 (2021-09-23 評価=3.00)
私は夜の九時頃、ウイスキーをあおって散歩に出る。人目につかぬよう服装を換え、色眼鏡やつけひげなどで面体も換えた。ある晩、女物の着物を着てみたくなった - IA02137 (2021-09-24 評価=4.00)
古着屋に下がっている女の着物を着たいと思い、つい羽織などを揃えて購入した。夜が更けると私は鏡台に向かって化粧を始めた。白粉を押し広げると皮膚の喜びは格別であった - IA02138 (2021-09-24 評価=4.00)
紅(べに)などで色を付けると、石膏のような顔がはつらつとした女の顔に変わる。女物の着物を着て日本髪の鬘(まげ)の上に頭巾をかぶり、夜の往来に紛れ込む。誰も気づかない - IA02139 (2021-09-26 評価=4.00)
私の体の血管に女のような血が流れ始め、自分の白い手の美しさにほれぼれした。私は、まるで探偵小説の秘密のような気分にうっとりし、次第に人通りの多い公園の方へ歩いた - IA02140 (2021-09-26 評価=4.00)
自分を犯罪者のように思い込んだ。歓楽街の写真屋の大鏡に立派に女に化けた私の姿が映っていた。幾人の女の群れも、皆私を同類と認めて怪しまない - IA02141 (2021-09-27 評価=3.00)
「秘密」を持つとすべてが新しくなった。秘密のとばりを一枚隔てて眺めるだけで、現実に夢のような色彩が施された。毎晩仮装して、私は映画館などにも平気で入るようになった - IA02142 (2021-09-27 評価=4.00)
私は次第に扮装も上達し大胆になった。一週間ばかり過ぎた晩、普段より多めにウイスキーをあおって映画館の貴賓席(特等席)に上がると、神秘な事件の端緒に出くわした - IA02143 (2021-09-28 評価=4.00)
私は場内の電灯がつくと、周囲の人々を見回した。私に注目している女は多く、得意だった。そのうちいつの間にか、私の左隣に二人の男女が腰をかけているのに気付いた - IA02144 (2021-09-28 評価=4.00)
女は若く見えるが二十六七だろう。日本髪に高級なマントをまとった美貌の女は、煙草を吸いながら私に瞳を注いでいた。それは上海旅行の航海で関係を結んだ、T女であった - IA02145 (2021-09-29 評価=5.00)
彼女は男から男へ胡蝶のように飛んで歩く種類の女なのだろう。お互い名も名乗らず、私は上海で跡をくらました。女は神々しいまでに痩せ、凜々しい権威さえ感じられる - IA02146 (2021-09-29 評価=5.00)
女の鼻も以前より高くなったように感じる。今、女が私に気付いているのかどうかはっきりしないが、女装した私は到底彼女の競争者ではない。醜く浅ましい化け物のようだ