美しい高原で病気の婚約者に付きそう私。残された短い日々を、二人はどうすれば幸せに送ることができるのか? 深い愛情を描く堀辰雄の名作
- IA02985 (2022-09-30 評価=5.00)
私は当初、節子の枕もとに殆ど付ききりで過ごしていた。季節が進むと、周囲の林は新緑に色づいた。私は時間というものから、抜け出してしまったような気がした - IA02986 (2022-09-30 評価=5.00)
時間から抜け出た単一な日々であっては、身近な彼女のしなやかな手や微笑が異なった魅力を引き出した。だが、彼女はときおり熱を出した。体を衰えさせるにちがいなかった - IA02987 (2022-09-30 評価=5.00)
ある夕暮れ、あたりの風景が鮮やかな茜色を帯びながら、鼠色に徐々に侵され出しているのを二人でうっとり眺めた。私は溢れるような幸福を感じた - IA02988 (2022-09-30 評価=4.00)
私が「いつか、今の生活を思い出すようなことがあったら、どんなに美しいだろう」と言うと、彼女は愉しそうに同意した - IA02989 (2022-10-03 評価=5.00)
彼女はためらいながら「そんなにいつまでも生きていられたらいいわね」と言い足した。会話の間に異様なまでの夕暮れの美しさは消えていた - IA02990 (2022-10-03 評価=5.00)
「私はあなたが、本当に自然を美しいと思えるのは、死んで行こうとする者だけだ、とおっしゃったのを思い出した」と彼女は言う。私は目を伏せた - IA02991 (2022-10-03 評価=4.00)
*** 真夏になり、サナトリウムの患者が増えだした。私達は二人だけの生活を続けていたが、節子は暑さのために食欲をなくし、夜もよく寝られないことが多かった - IA02992 (2022-10-03 評価=5.00)
私は病人の枕元で、息をつめながら、彼女の眠っているのを見守っていた。それは私にとっても一つの眠りに近いものだった - IA02993 (2022-10-04 評価=4.00)
自分もいつまでも寝つかれない時は、痛みを抑える手つきを真似たりした。ある日彼女が「病人のそばばかりいないで少しは散歩でもしたら」と言った - IA02994 (2022-10-04 評価=5.00)
私はよく他の患者のことを話題にしたが、一番重症と思われる、ぞっとする咳の音を立てる十七号室の患者の話だけは避けていた - IA02995 (2022-10-04 評価=5.00)
八月末近い夜、向こうの下の病棟が騒々しくなり、小走りの足音、器具の鋭くぶつかる音などが聞こえた。私はその嵐のような騒ぎが何であるか知っていた - IA02996 (2022-10-04 評価=5.00)
彼女が神経的な咳をした。私は目が覚めて隣室に入り、ベッドの縁に腰かけると、気弱そうな彼女は私は「そこにいて頂戴」と頼んだ - IA02997 (2022-10-05 評価=5.00)
九月になると雨が多くなった。毎日窓を締め切っていたが、ある日、中庭の向こうから一人の看護婦が近づいて来るのが見えた - IA02998 (2022-10-05 評価=5.00)
それは第十七号室の看護婦で「あの患者が死んだのかもしれない、こんどは?」と思うと心臓がしめつけられるような気がした - IA03000 (2022-10-05 評価=5.00)
寒くなると、サナトリウムの中も患者達が少しずつ去り、冬をこちらで越さねばならない重い患者達ばかりが残った。第十七号室の患者の死が、寂しさを目立たせた - IA03001 (2022-10-06 評価=5.00)
九月末、裏の雑木林に人の出入りがあった。翌日栗の木を伐り倒していたので、気味のわるい神経衰弱の患者が林の中で首を吊っていたらしい - IA03002 (2022-10-06 評価=4.00)
二つの死で、私は「死ぬ順番は病気の悪い順じゃない」ことに気付いて、ほっとしたような気になった。人夫達は伐り取った栗の木の跡を花壇に変えようとしていた - IA03003 (2022-10-06 評価=5.00)
*** 父がサナトリウムに立ち寄るという手紙が来て、節子は目を輝かせた。十月になると彼女は寝たきりで食欲も衰えていたが、つとめて食事をし、ベッドの上に起きたりした